宙に浮く場所
メイン・ビルのエントランスの前まで来た隼介は、一度そこで立ち止まって、自分がこれから暮らす場所をぐるりと見回した。
「キブツの中でも、エルロームはそれほど大きくないものだ」と、テルアビブのオフィースで聞かされてはいたが、メイン・ビルの他に大きな建物といえば、メイン・ビルの南側の幹線道路までの間にある、おそらく農機具用の建物だろう中にトラクターが入っている割と大きな建物と、いったい何に使われているのかはわからないがその西隣にある、二階建てでやはりコンクリート製の長細い建物くらいで、あとは目立つような建物はなかった。
そして、ここでくらす住民の生活区は、メイン・ビルの西側から北側にかけて、二階建ての同じような建物がコンクリートの小道に沿って点在していた。
隼介は、それだけ確認すると、エントランスから少し離れて、オフィースと書かれた部屋はないかと、メイン・ビルの一階正面に目をやったが、エントランスの右側に、「ショップ」と書かれたドアがあるくらいで、他には何もなかった。
「まいったな。どこを訪ねればいいんだ?」現地に着きさえすれば、後はどうにかなると高をくくっていた隼介には、こんな状況は予定外と言ってよかった。
キブツ・エルロームのメイン・ビルは、二階建てのコンクリート製のビルで、建物自体の外観を見る限り、これといって特徴はなかった。一応緊張した場所にある建物だから、何か特別な装備でもあるかと思っていたが、外観を見る限り、それらしいものは見当たらなかった。ただ、エントランスから少し離れたところに、どう見ても地下から上がっていると思われる、通気用のダクト口があって、それがどうしてこんな所にあるのかだけは不思議だった。
「しょうがない、中に入ってみるか」隼介は、二階の窓を見上げながらエントランスに近づくと、建物の割には小さいドアを開けて中に入り、誰かいないかとそこでも辺りを見回したが、ロビーだと思われるその場所にも、誰の姿もなかった。
「チェッ!暢気なもんだ。100人以上人がいるっていうのに、誰も出てこないなんてどうかしてるぜ。この国もどこかの国と同じで、何時間も昼寝でもするのか?」隼介は、少しイラついてきて、日本語で悪態をついたが、海外に出てからというもの、イラつくと、周りにわからないのをいいことに、日本語でこんな悪態をつく、悪い癖が出来ていたのに気づいて、慌てて口を押さえた。
テルアビブのキブツ・オフィースでは、いちいちここに着いてからのことまでは、親切に指示まではしてくれなかった。紹介状らしきものは持たされたが、ここでまず最初に会う相手も教えられていないのだから、後は自分で何とかするしかなかった。
ロビーの左手には、電話ボックスが三ヶ所あって、すぐ側に時計が掛かっていたが、針は11時半になろうとしていた。
「ハロー。誰かいますか?」
隼介は、少し大きな声で何度も呼んでみたが、何の返事どころか、誰も出てくる気配すらなかった。
エル・ロームには、滞在中の海外からのボランティアも含めて、140から150名ほどの人間が常時いると聞かされていた。それだけの人数がいるなら、オフィースくらいはあるだろうと思っていたのに、どうもそれらしい部屋はなく、入ってすぐ左手にミーティング・ルームがあり、右手には、大きな談話室、本が置いてあるリビング、テレビのある娯楽室と並んでいたが、どの部屋もオフィースを兼ねている様子はなかった。
「まいったなァ。とりあえず後ろにでも回ってみるか」
入って来たドアの反対側には、裏に抜けるドアがあり、ここで暮らす人達の住居は、そのドアの向こう側に見えていた。隼介は、住居の方に行けば、誰かに会えるかもしれないと思い、そのドアに向かって歩き出したが、隼介がドアの取っ手に手を掛けようとした時、一人の中年女性が、ドアの向こうに急に現れて、隼介と目が合った。
その人は、見慣れないアジア人がロビーに立っていたせいだろう、「まァー」と驚いた声を出して、一瞬たじろいだような素振りを見せたが、隼介が大きなバック・パックを背負っているのを見ると、すぐに納得したような顔をして、ドアを入るなり、「ボランティアなの?」そう言って、声をかけてきてくれた。
「はい、ボランティアです。さっきバスでここに着いて、ずっと誰かいないか呼びかけていたんですが、やっと出てきてくれましたね」
「あァ―、今は皆外に働きに出てる時間だから、この時間は、ほとんど人はいないの。でも、もう少ししたら昼食の時間だから、皆帰ってくるわよ。・・・そうねェ。ボランティア・リーダーは確か・・・。そうそう、ケニーだったわね。・・・でも、この時間は彼もいないか?ところで、あなたはチャイニーズ?」
「いえ、僕はジャパニーズです。シュンスケっていいます。シュンって呼んでください」
彼女は、日本人だと聞いて、信じられないというような顔をして、まじまじと隼介の顔を見た。
「そう、ジャパニーズなの。驚いたわ。ジャパニーズがこんなとこまで来るなんて。きっと皆珍しがるわね。私の名前はサラ。よろしくね」
サラがそう言って、手を差し出すので、隼介も慌てて手を差し出した。
「これから昼食なの。あなたもお腹が空いてるんじゃない?一緒にいらっしゃい」
「えッ、いいんですか?」
「勿論。あなたも今日からここの一員なんだから、遠慮しないでいらっしゃい」
そう言われて、隼介は、サラの後について、二階にあがる階段を上っていった。
メイン・ビルの二階部分は、ダイニング・ホール、キッチン、食料庫などの、このコミュニティーの食を賄うエリアとなっているようで、ダイニング・ホールは、二階の北側三分の一を占める広さがあり、ここの住人全てが、一堂に会して食事が出来るだけの広さがあった。
サラの後について、隼介がダイニングに上がると、すでにもう数人が昼食を始めていたが、大きなバック・パックを背負った、この辺ではあまり見かけたことのないアジア人に気づくと、彼らは、隼介の方を珍しそうに見つめていた。
「もう少ししたら、ボランティアの皆も食事に帰ってくると思うから、あの子達にいろいろ聞けばいいわ。ボランティア・リーダーは、ケニーというイスラエル人で、ここのメンバーなんだけど、彼もその内ここにくるでしょう。さァ、荷物はどこかに適当に置いて、食事にしなさい。あそこにあるもの、何でも取ればいいわ」サラは、そう言って、バッフェの方を指差した。
隼介は、階段の上がり口にバック・パックを下ろすと、ダイニングとキッチンの間にあるバッフェに行き、皿を手にとって、大きなプレートに山盛りに盛り付けてある料理やスープを見て回ったが、その種類の多さには感心した。
こりゃあ凄いや。食べることに関しては、困ることはなさそうだな― 隼介は、心の中でほくそ笑んだが、キブツでは、夕食よりも昼食をメインにするという習慣があるようで、夕食を簡素にするぶん、昼食には手間ひまをかけ、肉、魚料理は勿論だが、野菜サラダからスープ、デザート、フルーツ、飲み物に至るまで、昼食は、バラエティーにとんだものが用意される。勿論これには、大勢の人間がストレスのない共同生活を送るために、提供するものを限定して押し付けるのではなく、極力大勢の人間の好みに合わすという配慮もあり、こんなに多くの種類の料理を準備する必要があるのだろうが、好き嫌いのない隼介には、目の前に並べられた料理の数々は、海外での貧乏生活が長いこともあり、幸せこの上ないものに思えた。
隼介は、ドライ・カレー風に味付けしたライスと、ピーパーという、ピーマンの肉詰め料理を皿に盛り、別の皿に野菜を、これでもかというほど山盛りに詰めてトレイに乗せた。あとは、オレンジジュースをサーバーからコップについで手に持ち、どこで食べようかとダイニングを見回した。すると、隼介のことを珍しそうな顔で見ていた人達が、今度は隼介に向かって、手を上げたり、笑いかけてくれているのに気づいた。彼らの側でサラが、隼介の方を見ながら何か話しているとこをみると、隼介が日本人だと教えたのだろう。
隼介は、一応愛想笑いを浮かべて、彼らにちょこんと頭を下げると、ダイニング・ホールの隅のテーブルに行って座り、オレンジ・ジュースを一口飲むと、そこから外を見回した。
ちょうどその位置からは、西側から北側にかけて広がる、住居部を見渡すことができた。
キブツ・エルロームがこの場所でスタートしたのは、十二、三年前だと聞いていた。パレスチナの地に、東欧から逃れてきた数人の人間が、初めてキブツの基礎となるコミューンを立ち上げたのが、1900年代の初頭だから、イスラエルの代名詞ともいえるキブツの長い歴史を考えれば、エルロームは、まだほんの駆け出しのキブツと言えた。
そのせいか、建物はどれも二階建てのコンクリート製で、まったく個性の無いものだったが、くたびれた感じもなく、各建物の周りに植えてある樹木の大きさが、このキブツの歴史と同じだけの成長を見せていた。
隼介は、キブツ全体の、大体の建物の位置関係と、このキブツ全体の大きさがわかると、テーブルに向き直り、忙しくフォークとナイフを動かし始めた。大量に作った食事にしては、味は悪くなかった。
食い放題というのは、俺にはもってこいだよな。これで夕食にビールでもあって、かわいい子でも沢山いれば、ここはまったく天国じゃないか― 隼介は暢気にそんなことを考えながら一皿たいらげると、ほんの1時間前に、シュワルマの入ったピタを食べているにもかかわらず、お変わりしようと立ち上がったが、ちょうどその時、数人の男女が、階段を上がってダイニングに入っくるのが目にはいった。
すると、少し離れたテーブルにいるサラもそれに気づいたらしく、その中の、耳にピアスを付けた白人に向かって、「あら、スティーブン。こっちよ、こっち。悪いけど、ちょっとこっちに来てくれる・・・」と、大きな声で、英語で呼びかけ、手招きをした。
スティーブンと呼ばれたその男は、自分を呼ぶ相手がサラとわかって、露骨に面倒くさそうな顔をしたが、後ろにいた他の白人女性に肩を叩かれると、渋々サラのいるテーブルに近寄っていった。
隼介は、サラが、ヘブライ語ではなく、英語で呼びかけたのを聞いて、スティーブンと呼ばれたその男が、ボランティアの一員だとすぐに想像できたので、おそらく自分のことを話すのだろうと思い、二人の様子を窺ったが、案の定、スティーブンというその男は、サラから何か聞くと、そのまま隼介の方に近寄って来て、話しかけてきた。
「あんたかい、新しい仲間っていうのは。悪いがちょっと待っててくれるかい。何か食い物を見繕ってくるから。腹が減ってたまんねえんだ」
彼は、そう言うとバッフェに行き、腹が減ってるにしては少量のパンと、グラーシュという煮込み料理を持って帰ってきた。
「今日は、朝からオーチャード(リンゴ園)で剪定の仕事でね。ここの連中ときたら、まったくよくこき使ってくれるんだから。・・・おっと、忘れてた。俺、スティーブンっていうんだ。イギリスから来てる。あんたはジャパニーズだってな。サラも珍しいって言ってたが、俺もジャパニーズと話すのは初めてなんだ。学校では、チャイニーズやベトナムの奴はいたけどね。まッ、よろしく」
「あァ、こっちこそ。俺は、シュンスケっていうんだ。シュンて呼んでくれ。ところで、もうここは長いのか?」
「いいや、まだ2ヶ月だよ。それにしても、おたく英語が上手いな。どこかの国に長くいたのか?」
「いや、そうじゃあないが、もう3年、いろんなとこ旅して、海外で仕事もけっこうしてるからな」
隼介は、そう言ってニヤっと笑ったが、スティーブンは、それで隼介の歳とキャリアが大体わかったようで、後は何も言わなかった。
「ねェ、ここ座るわよ。トレーシー、こっちこっち」
その声につられて隼介が横を見ると、鼻にピアスをした長い髪の女の子が来て立っていて、、バッフェにいるもう一人の女の子を呼んで手招きをした。トレーシーというその女の子も、すぐにそれに気づいて、隼介達のところにやってきた。見ると、二人とも少し「トンダ」「トッポイ」感じの女の子だったが、トレーシーという子は、来るとすぐに、隼介に向かって笑いかけたので、悪い感じはしなかった。
「スティーブン、あんたねェ、午前中あまり動かなかったでしょう。ダニが怒っていたわよ。私達はボランティアだから、直接文句を言ってこないかもしれないけど、極潰しにだけはみられないでよ」
「チェッ、わかったよ・・・」
スティーブンは頭ごなしにそう言われて、不機嫌な顔をして、小声で何か悪態をついていたが、隣に座ったトレーシーに肩を叩かれて、一応は「ごめん」と素直に謝ったが、たぶんトレーシーの方が年上なんだろう、スティーブンのバツの悪そうな顔は可笑しかった。
「そうそう、私はジャネット。こっちはトレーシーっていうの。よろしくね。私達は3人ともブリティッシュ。あなたはジャパニーズね。珍しい」
「俺はシュンスケ。シュンってよんでくれ。ブリティッシュばかりだな。今何人ボランティアがいるんだい?」
「ブリティッシュが6人でしょ。それから、スイス人とアメリカ人の女の子が一人づつと、ニュージーランド人の男が一人ね。あッ、そうそう、キーウィーってニックネームで呼ばれてる、ニュージーランド人のメンバーになっている男の人もいるわ。あとは・・・。海外から来てる人では、アンディーっていって、最近この辺りでワインを造り始めたんだけど、ワイナリーにアドバイザーとして来てる、アメリカ人もいるわね」
「ブリティッシュが6人もいるのか。ここに来る途中に、バスの休憩所で会ったオヤジが、この辺りにボランティアのブリティッシュは沢山いると言ってたが、イギリスはえらく暇なんだな」
「仕方ないよな。あれだけ失業者がいれば、国にいても仕事はないし・・・。ここにいれば、食うことだけには困らないからな」スティーブンは、ぼそりとそう言うと、少し不機嫌な顔をした。
この頃の欧米の進学率は、日本に比べると相当低く、中学から高校に進学する割合は、どの国も5割前後程度だったが、それは、16歳から仕事を探す若者が大変多いということを意味していた。1950年代から60年代にかけての日本で、中学を卒業して就職を希望する者を、金のタマゴと呼んで、持てはやされたことがあるが、あの当時は、日本がまだ発展途上の段階で、製造業などで多くの安い労働力を必要としていたから、そういったことも起こったのだろうが、この頃のイギリスのように、中心となる工業の製造分野が落ち込んでしまった国では、高学歴の技術系や専門系の人間には、仕事は十分あっても、学歴も技術も持たない10代の若者には、臨時仕事や季節の仕事を含めても、仕事はそれほどなかった。
ただ、そんな、失業者の多い国に入り込んでまで、旅を続ける資金稼ぎをしなければならない隼介の場合は、日本で技術系の大学を出て、多少の実務経験があるのと、海外に出て、切羽詰った気持で必死になって英語の習得に努めたせいで、それでも何とか、若い失業者の多い海外で仕事を貰って、生き抜くことができていたのだった。だから、イギリスのそういった実情を知っている隼介には、スティーブンの気持が理解できないでもなかったが、本音を言えば、努力もしないで、早くから安易な方向に走る態度には、正直失望をしていた。
「ハーイ、ガーイ・ズ、今日はどうだい?今日は俺は、ビンヤード(ブドウ園)の仕事だよ・・・。あそこは北風が良く通るから、もう寒くて。・・・おや、これは見慣れない顔がいる。ニュー・フェースかい?俺はポール。ニュージーランド人。ここに来て4週間になる。よろしくね。・・・ところで、君は、いったい何人かな?」
12時になって、ダイニングには、人がどんどん集まるようになっていて、隼介には、すでにボランティアの見分けはまったく出来なくなっていた。なにせ、イスラエル人といっても、外観はまちまちで、アラブ系の顔をした者もいれば、白人の顔もいるし、肌の黒い、アフリカ系のイスラエル人も中にはいる。ポールと名乗るその男はというと、頭の毛が少し薄く、老け顔をした、ちょっとインテリっぽい顔をした男だったので、隼介には、最初イスラエル人に見えた。だから、初対面などまったく気にすることもなく、陽気に話しながら側に来て座り、突然隼介の肩を叩いて話しかけられて、隼介の方が面食らったが、他の連中は、ちらっとポールの顔を見ただけで、この男はいつもこういった調子なんだろう、別に興味もなさそうな顔をしていた。
「俺は、ジャパニーズのシュンスケ。よろしく」
隼介は、ライスを口に運びながら名乗ったが、ポールが手を差し出してきたので、慌てて手を出して握手をした。
「アン、仕事は終わったの?こっちにおいでよ。新しい人もいるから、一緒に食べようよ」
ポールは、忙しい男で、隼介に挨拶が済むと、今度は、キッチンから出てきた、30歳前位の女性を見つけ、手を振って彼女を呼んだ。
「シュン。彼女もボランティアで、アメリカ人のアン。ちょっと俺よりも年上だけど、いい人だよ」
隼介は、ちらっとアンのほうを見たが、それよりも、隼介には、ポールの人の良さそうな性格の方がうれしかった。というのも、隼介は、3年前にニュージーランドを旅していて、その時に、あまりにも親切で素朴な国民性に触れて、いたく感動したことがあり、ニュージーランドが世界中で最も人が良い国という印象を持っているのだが、ポールは、まさにニュージーランドを代表するような人間っていく感じで、隼介は、この男とはうまくやっていけそうだと思った。
「スティーブン。今日、テリーとマイケルは、南のアボカド農園に行ってたよな。昼飯は向こうか・・・。シュン。ここのボランティアは、あと4人いるけど、ブリティッシュのテリーとマイケルは夕方にならないと帰ってこない。もう一人のブリティッシュの女の子で、キャティーっていうのがいるけど、その子は、ここのボランティア・リーダーのケニーっていう奴にべったりでね。一緒に暮らしてるうえに、仕事も一緒にしてるから、今日はケニーと一緒にリンゴの選別工場にいる。・・・そういえば、リタも工場だったよな。リタって、スイス人の女の子。とにかく、夕方になれば皆揃うから、そしたら紹介するよ。・・・ところで、部屋のことは、何か皆と話したの?」
隼介は、「まだ来たばかりで、何の話もしていない」と言うと、ポールは、「それなら俺の部屋にベッドが空いてるから、そこにすればいい」と勧めてくれた。そして、食事が済んだら、一度部屋に帰るから、荷物を持ってついてくるように言ってくれた。
ボランティアの住む建物は、メイン・ビルから見て北西の、少し奥まったところにある建物だと教えられた隼介は、ポールについてメイン・ビルを裏口から出たが、メイン・ビルの西側には、意外に多くの施設や住居が並んでいた。
裏口を出たすぐ左側には、平屋の建物が二つあり、メイン・ビルに近いほうは、割と大きなランドリーで、個人の汚れ物も含めて、洗濯物は、そのランドリーに持っていけばいいそうで、一番最初に会ったサラは、ここの責任者だということだった。そして、その隣のトタン屋根のそれほど大きくない建物は、このキブツ全体の維持や雑仕事用のワーク・ショップで、そこの責任者が、メンバーの資格を持つ、キーウィーというニックネームで呼ばれているニュージーランド人らしかった。
「キーウィーは、もう6、7年もここにいるニュージーランドの人間なんだけど、口数の少ない男でね。どうしてわざわざここのメンバーにまでなったのか、未だに話してもくれないんだ。まァ、ニュージーランド人の中でも、特に変わり者の部類だな」
ポールは、「特に」という言葉を使った時、大げさなジェスチャーで、困った顔をして隼介を笑わせたが、「俺は、クライストチャーチの生まれで、多少は都会育ちだったもんで、こんな辺鄙でヤバイ場所で、何年も暮らそうなんて思わないけれど、キーウィーは、ニュージーランドのよほど田舎の生まれか、或いは、とことん世の中に失望でもしたのかもしれないね。まァ、ユダヤ人の中で生きようと思うんだから、もしかしたら、人生の達観者なのかもしれないけどね」と言った言葉には、決して人を見下げるようなニアンスはなかった。
イスラエル人以外でも、2、3年ボランティアとして働き、キブツのメンバー達の同意が得られれば、外国人でもメンバーにはなれるそうだった。キーウィーも、そうしてメンバーの資格を取ったのだろうが、確かに、ユダヤ人でもない男が、こんな場所に長年いることは、隼介にも不思議で、早くそのキーウィーと呼ばれる男には会ってみたいと思った。
「あの、一番西のはずれにある、3棟並んでる平屋の建物。あれは養鶏場。オリには入れずに、建物の中で放し飼いにしてるから、ここのタマゴは非常に良いと思うよ。それから、すぐそこにある建物が、ここの保育所。1、2歳から、学校に入るまでの子供達が一緒に住んでる。それ以上の年の子供達も、ほかの建物で一緒に勉強して、一緒に生活してる。・・・知ってるかい?これはキブツ独特の考え方で、男女平等っていう観点から、子供を持った女性に、時間的束縛を与えないために、子供達にも、小さいうちから共同生活をさせているんだ。それに、子供は、キブツの子っていう考え方らしくて、責任は、親じゃなくてキブツが持つらしいよ。僕には、それが良いのかどうかわからないけど、キブツの最も特異な点のひとつかな?」
キブツは、純共産主義の社会、平等の社会と言われ、確実に成果を上げている、世界でも類を見ない、稀なコミュニティーと言われている。厳しい審査に受かったメンバーは、キブツの中では、男女を問わず、常に平等な立場に置かれると共に、衣類や家具などの個人所有物を除けば、私有財産はなく、生活面での貧富の差もない。その考え方が、子育てや教育にも反映されているようで、隼介には、初めて接するこの社会が、凄く新鮮に感じられたが、まだ来たばかりの隼介には、未知の社会でもあった。
「へェー、そうなんだ。子供まで小さい頃から共同生活させるなんて、凄い試みだよな・・・。ところで、ポール。生活区のところどころに、石を積んだ小山のようなものがあるけど、あれはいったいなんなんだ?」
隼介は、先ほどから、5、60メータ離れて点在する、どうも生活区の中にあるものとしては、違和感のあるその小山が気になっていた。
「あァ、あれか。あれはね・・・」
そう言いかけて、ポールは、保育所の裏から出てきた、40歳位の男性に気づいて立ち止まると、その男性に向かって大きな声で話しかけた。
「やァ、マイク。これから昼食かい?いやに遅いけど、今日は休みなの?」
その男性は、ポールに気づくと、「あァ、そうだ。今日は、代休で休みだ」そう言って、二人のところに近寄って来た。
「マイク、紹介するよ。ジャパニーズのシュンスケ。今日着いたんだ。シュン、こっちへおいでよ」
隼介は、ポールに呼ばれるまま側に行くと、自分よりも一回りは年上のその男性に挨拶をして、手を差し出して握手を求めた。
「珍しいな、東洋人なんて・・・。俺は、マイク・ベンハー。3年前にアメリカから移住して来た。何かあったら言ってくれ。きっと力になるから」
マイクは、そう言ってウインクをしてよこしたが、戦争映画に出てくる軍曹のような、精悍な顔立ちに鋭い目をしているのに、笑うと意外に接しやすい感じだった。それに、「よかったら、夕食の後にでも、部屋に尋ねてこいよ」と誘ってくれたことも、隼介に良い印象を与えた。
しかし、マイクが立ち去ると、ポールは、ちらっとマイクの後姿を睨んで、「さっぱりした、良い男で、俺達ボランティアにも親切だし、何と言ってもここのメンバーの中では、一番付きあい易いんだけど。・・・ただ、どうしても納得のいかないことがあってね。実は、ボランティアの中に、スイス人で、リタって子がいるだろ。あの男、どうもリタを玩んでいる気がしてならない。リタは、それほど器量も良くないし、中学校しか出ていない、英語もろくに話せない子なんだけど、凄く純真な子なんだ。マイクとの歳の差が14、5歳はあるし、ほら、あの男、凄く頭の切れそうな感じだろ。どうみてもリタのようなタイプが好みとは思えない。だから俺は、リタが旨く乗せられている気がしてならなくてね。いまひとつマイクを信用できないんだ。もしリタのような子を傷つけたら、俺は、絶対許せない」そう言って厳しい顔をしたが、「ごめん、悪かったね。ショウはまだ来たばかりで、何もしらないんだもんな。」そう言って今度は、気まずそうに隼介に向かって笑いかけた。
「・・・そうか、先っきの話の続きだけど、そこいらにある、あれのことをシュンは言ってるんだろ?」
ポールは、そう言うと、20メーターほど先の、建物と建物の間にある、石の小山を指差した。
「あれはね、防空壕さ。防空壕くらい、君も知ってるだろう?俺達がここにいる内は、絶対にお世話になりたくない代物だよな。・・・まァ、この土地の本来の持ち主のシリアは目の前だし、イスラエルが勝手に合併したとか言っても、ここは実質占領してる訳だし、こういった備えは必要不可欠なんだろうな。でも、ここにあるのは、これだけじゃないよ。メイン・ビルの地下には、随分立派な、核攻撃を想定したシェルターもあるんだからね」
「えッ、シェルターまであるんだ・・・。玄関脇に、地下から上がってる、通気用のダクト口があったから、なんだろうと思ったけど、そういう訳か」
「あァ、ここのメイン・ビルは、外観からはあまりよくわからないけど、いろいろ考えた構造になっているのさ。・・・でも、暮らしてれば、そんなもの殆んど気にならないよ。シェルターだって、俺達は、週末のディスコに使ってるし、ウエイト・トレーニングの道具もあるから、暇な時には覗いてみればいい。いつだって入れるよ。・・・さァ、その3軒目が俺達の棲家だ」
ポールがそう言って、ボランティアの住む建物を指し示した時、通りかかった建物から、一頭のセントバーナード犬が飛び出してきて、ポールに纏わり付いた。
「よしよし、プロフェッサー。落ち着けよ。まだこれから仕事があるんだから、一緒には遊べないよ。シュン、何とかしろよ。こいつは、いつもこうして飛びついてくるんだ」
ポールの話だと、このキブツには、大型犬も何頭か飼われていて、個人が飼っているものではないということだった。二人は、プロフェッサーと呼ばれるその犬を連れて、ボランティア用の建物に入ると、二階の、向かって左側の部屋に入っていった。
部屋は、1LDKの、ごくシンプルなもので、6畳ほどのベッド・ルームには、ダブル・ベッドが置いてあったが、イギリス人のマイケルが使っているそうで、ポールは、8畳ほどの広さがあるリビングの方を使っていた。そして、そのリビングには二つベッドがあって、その片方を隼介が使うことになった。
「最初にことわっておくけど、マイケルはトレーシーと良い関係になっていてね。二人ともここには3ヶ月以上いるんだから、別段おかしくもないし、本人達の勝手だから、それはいいとして。ただ、困ったもんで、トレーシーはよくお泊りに来るんだ。それで少しばかりうるさい夜があるかもしれないが、我慢してやってくれ」ポールは、そう言って、隼介にウインクをしたが、「あァ、俺も海外に出て、もうそういったことには慣れっこになってるんでね」と隼介が返すと、「じゃァ、俺のように、枕を抱えて耐えるようなことはないな」と言って、大笑いした。
「それから、二階の向こうの部屋は、今はアンが一人で使ってる。この下の部屋には、ジャネットとトレーシーがいて、一階のもう片方の部屋は、スティーブンとテリーが入ってる。本当は、リタもキャティーもここにいたんだけど、出て行ったから余裕があるんだ。まァ、誰か新しい人が入ってくるだろうから、その内一杯になるよ。・・・それから、仕事は、早く始まるもので6時。遅いものでも7時には始まるけど、3時から4時には終わる。翌日の仕事の予定は、玄関横のミーティング・ルームに、夜9時に行けば指示してくれるけど、大体が1週間サイクルで変わるよ。シュンも明日から仕事に出るんだろ?だから今日はのんびりしなよ。」
ポールは、そこまで説明すると、「上着を着替えに帰っただけなんだ。ビンヤード(ブドウ園)は、今日は寒くて」そう言って、ダイニングにあるキャビネットを開けて、中からセーターを引っ張り出して着たが、「ランドリーに行けば、必要な服も貸してくれる。ここは、共同、平等が原則なんだから、なにも遠慮することはない」と教えてくれた。聞くとこによると、ゴラン高原は、冬場、雪が2、30センチ積もることがあるそうで、そんな場所に来ることまで想定していなくて、十分な冬服を持たない隼介には、非常に助かる話だった。
「4時過ぎには皆帰ってくるから、その時に皆に会えるよ。きのうがシャバット(安息日)だから、もしショウが二日前に着いてたら、盛大な歓迎会ができたのにね。でも、シャバットの前夜の毎週金曜日の夜は、俺達ボランティアは、メンバー達と違って、いつもパーティーをやらかしているから、今度の金曜日を楽しみにしてなよ」ポールはそう言うと、プロフェッサーを連れて部屋を出て行った。
それから、自分の荷物を片付けた隼介は、ランドリーに毛布とシーツを借りに行き、帰って来てベッド・メイクをしたが、疲れてしまっていたのか、いつの間にか寝てしまっていた。
そして、隼介が起こされたのは、もうすっかり辺りが暗くなった頃で、体を何度か揺さぶられて、それでやっと目を覚ました。
「やァ、おやよう。せっかくよく寝ていたのに悪いね。もう夕食の時間に近いから、一緒にどうかと思ってね。・・・ところで、俺はマイケル。君はシュン?とか、ポールが先っき言ってたが、どうぞよろしく」
隼介は、熟睡していたところを起こされて、起き上がりはしたものの、暫く寝惚けたように頭を掻いていたが、急に気づいたようにマイケルを見上げると、「やァ、初めまして」そう言って、だるそうに手を差し出した。
「俺達は、先に行って、テレビで中東放送の、英語のニュース番組を見ているから、シャワーでも浴びたらおいでよ」
隼介は、「あァ、わかった。そうする」と答えると、だるそうにベッドを抜け出してシャワー浴び、そそくさと着替えてメイン・ビルに向かった。
昼間と違い、夜のとばりの下りた高原は、空と大地の境がわからないほど暗く、生物の存在を感じさせないくらい静まり返っていた。こんな時間街中だと、どこからか、若い連中が聞く音楽かラジオの音でも流れてくるのに、それすらも聞こえてこなかった。ここで暮らす人達は、いつもこうして、息を殺したような雰囲気の生活をしているのだろうか?― そう思うと、隼介の中に、少し不安な気持が生まれた。
メイン・ビルのダイニング・ホールの明かりは、そんな暗闇の中に、ぽつんと浮かび上がった異空間のように見えた。そのやけに明るい、宙に浮いたような空間の中では、すでに大勢の人達が動き回っているのがわかったが、隼介には、その空間が、何故か冷たく感じられた。どうしてそんな風に見えるのかわからなかったが、暖かい、和やかな雰囲気に包まれた、夕食のひと時に憧れていたという意味では、あまりにも味気ない場所だと、隼介は思った。
視線よりもやや高い、東のシリアの空は暗く、視線と同じ高さに広がる、西のイスラエルの空は紺碧色をしていた。そんな両者の狭間にある、この暗闇の世界に浮かぶこの場所もまた、多くの意味で、宙に浮いた存在であり、寒々とした場所に違いなかった。
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